北摂・三島の「隠れ名所探訪」

待宵小侍従墓・顕彰碑 恋多き女性歌人 小侍従(こじじゅう)をしのぶ小さな塚

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北摂・三島の「隠れ名所探訪」

待宵小侍従墓・顕彰碑 恋多き女性歌人 小侍従(こじじゅう)をしのぶ小さな塚

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小侍従は小野小町や紫式部、清少納言などと並んで、優れた女性歌人として鎌倉中期の「女房三十六歌仙歌合」に選ばれた一人や。晩年は出家して、この辺り(島本町桜井)に真如院という庵を結んで暮らしたそうやねんけど、応仁の乱で燃えてしまって今は跡形もないねん。待宵の小侍従と呼ばれるようになった理由は、「平家物語」に書かれてるんや。当時、仕えていた太皇太后多子(まさるこ)から「恋人を待つ宵と恋人が帰る朝のどちらが趣深いか」と問われ、「待つ宵のふけゆく鐘の声聞けば 帰るあしたの鳥はものかは」(待つ宵が更けていく鐘の音を聴けば、帰る朝の鳥の鳴き声など物の数に入りません)と詠ったからやそうやねん。何とも趣深いやり取りやね。

恋多き小侍従の伝説はこれだけやないで。同じく鎌倉中期の説話集「古今著聞集」には、後鳥羽上皇の祖父にあたる後白河院とのやりとりが残ってるんや。御所で院と公卿、他の女房と一緒に雑談していた折に、忘れられない恋の思い出を順に語るように院が仰せになり、小侍従の番が回ってきたときに、その告白を聞いた院が、相手は誰かと聞いてもなかなか答えない。あまりに強くお尋ねになるので、笑みを浮かべ「お忘れですか?」と院をしっかりと見つめて答えたという。これにはさすがの院も居たたまれず、逃げ出されたそうや。

小侍従がこの地に住んだのは60歳で出家してから81歳で亡くなるまでといわれていて、死後450年を経て、高槻城主の永井直清がこの辺りにあった苔山に顕彰碑を建立。江戸時代の観光ガイド「摂津名所図会」にも待宵小侍従塚の絵がある。それが名神高速道路拡張工事の際に、現在の位置に移されたそうやねん。亡くなる1年前まで、歌合に臨んだ記録が残っていて、生粋の歌人やったことがわかる。ただただ関心するばかりやね。(G.I)

※これは2023年11月現在の情報です。

住所:三島郡島本町桜井3-14
アクセス:JR京都線島本駅から徒歩15分

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