小説の主人公のようにめぐる 難波界隈文学あるき

源聖寺坂 作家・織田作之助を育てた歴史の年輪を感じる坂道

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源聖寺坂 作家・織田作之助を育てた歴史の年輪を感じる坂道

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作家・織田作之助が生まれたのは、難波大社 生國魂神社の近く、この源聖寺坂を上がった先やった。その自伝的作品『木の都』の書き出しにも、「私の幼時の記憶」として生國魂神社の境内に続いて、源聖寺坂が出てくる。この坂を下れば難波界隈で、坂の上が上町や。織田作(愛読者は親しみを込めてそう呼ぶ)は、この坂を上り下りしながら、大きいなったとも言える。そしてこの辺りは「元禄の昔より大阪町人の自由な下町の匂いがむんむん漂うていた」(『木の都』)そうや。

坂の上り口の近辺は、縄文時代には南北に砂浜が続いていたそうで、坂の上の上町は大きな半島やった。その一帯が夕陽丘と呼ばれ、特に西の海に沈む夕日が美しかったという。『木の都』にも登場する新古今和歌集の撰者の一人、藤原家隆も晩年この地で「ちぎりあれば難波の里にやどり来て波の入日ををがみつるかな」(縁あって難波の里に暮らし、波の間に沈む夕日を拝んでいる)という歌を残しているんや。

また、この辺りが下寺町と呼ばれ寺が多いんは、江戸時代初期に市中の寺を集めたからや。江戸末期に出版された『滑稽浪花名所 下寺町』と比較しても、その面影を残しているのがわかる。それから源聖寺坂という名前の由来は、坂道沿いにある源聖寺の境内を削って坂を作ったことにあるらしい。ちなみに坂の入口の敷石は、昭和の中頃まで走っていた大阪市電が廃止された時に、ここに持ってきたそうや。坂も時代と共に年輪を重ねていくんやね。

※これは2023年8月現在の情報です。

住所:大阪市天王寺区下寺町~生玉寺町
アクセス:大阪メトロ千日前線日本橋駅から徒歩8分

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