Vol.01
通天閣観光株式会社社長
高井 隆光氏
Vol.01
通天閣観光株式会社社長
高井 隆光氏
来場者低迷からのV字回復を
支えた
アイデア力に注目!
大阪のランドマークであり、関西人の知名度は間違いなく100%。通天閣がそんな大阪のシンボル的存在になるまでには、苦悩の時代や知られざる紆余曲折が……。奇想天外なアイデアと行動力で通天閣を輝かせ続ける、高井社長にお話を伺いました!
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CHAPTER 2
3カ月で潰したる!
通天閣のチャンスロスに危機感
CHAPTER 2
3カ月で潰したる!通天閣のチャンスロスに危機感
生まれも育ちも新世界ね、メイドイン新世界。良いも悪いも分かってるから、環境はね、良いか悪いかでは良くはない。西成区・浪速区というのは労働者の方が多かったりとか、やっぱり、怖いっていうイメージ。
後継ぎというか、急遽、この会社に入社させていただきました。若かりし頃の私は、「この新世界っていうのはもっと人が集まる町になって欲しい。その集まるシンボルが、通天閣で、もっと光輝いて、華々しく輝いて、人を集めて欲しい。」
どうしても大阪、ディープな下町というか、村ですよね。ただ、外者を排除するっていうか、村意識の団結力が非常に強く、地域以外の方を受け入れにくいというか…。
それはどこの地域でもあるとは思うんですけど、村意識が非常に小さくて、コミュニティの輪っていうのが、非常に強いものですから、そういう中で、新しいものに慎重になってる。僕らからしたら新世界やと思うんですけど、年配者からしたら、やっぱりおらが町という感じで、地元に対しての愛着、執着といった意識が強いもんですから。どうしても、地域に愛というか思いが強いもんですから、他の方が見る新世界通天閣と、住んでいる方との意識のちょっとギャップがあったりとかしながら、なんかこう、チャンスロスしてるんじゃなかろうかなっていう。
地域の中での通天閣にもっと頑張って欲しいという中で、変化がない。
僕は、「通天閣がもっと頑張らんとあかんのに胡坐かいてる。いろんな変化していかんとあかんのに、変化することによって後世に残していけるん違うかなっていう思いの中、そのチャンスでことごとくできてない」と。
だから「通天閣、3ヶ月で潰したんねん」と思って。「通天閣はチャンスを生かしきれてない。スクラップアンドビルドや!」っていうね、もう何も知らんから。
町の秩序も、通天閣の中の雰囲気も、地域を変えるには通天閣が変わらんとあかん。やっぱ通天閣は、本当に町のシンボルと呼ばれるように頑張ってほしいっていう思いから。
若かりし僕は3ヶ月で潰したんねんと思って。極論ですけどね、そういう思いで初出社しました。
ただし、町を変えるなんて、やっぱり10年かかりましたかね。3ヶ月が10年だし、まあ、通天閣に入っても、そう簡単には…。
今までの歴史があったり、流れがあったり、正しいことを言ってるつもりでも、やっぱり、周りがついてこない。そういう中での、ジレンマや寂しさは感じながらも、それはそうですよね。30過ぎ、30(歳)のお兄ちゃんが、いきなり、なんもわからんと、正論かもしれへんけど正論が凶器になる時もあるやろうし。
でも、凶器だったんでしょうね。若かりし僕の中では、正しいっていうか、新世界通天閣の当たり前が、他の地域では当たり前じゃない。逆を言えば他の当たり前が、通天閣に持ってきても当たり前じゃないって言ってる。だから3ヶ月で潰すって言ってたのが、3ヶ月以内に分かっちゃったみたいな。
コツン、コツン、コツン、ガツンボコンですね。はい、やられました。出過ぎた杭は手が届かないとか言われた方もいらっしゃったんで…。
当時の僕は、どんどん、どんどん、人の忠告も聞くことなく自分の信念でね、通天閣地域を変えるっていう思いで飛び抜けましたけど。まあ、ボコボコにされましたね。そりゃそうですよね。
1人ではできへんし、そんなもん。良いも悪いも通天閣って歴史があるものですから、その流れを変えるのは非常に大変だなっていう。多分、何も知らんかったから言えたんかなとかね。
今の僕がその当時の僕に対して言うんやったら、「もうやめときなはれ」みたいな。知らんかったからできたんかな。
知らないって最強やなと思いましたね。今も思ってますけど、知らないことが素敵だし、知らないからできるって、簡単に言ったら若い子は「知らん」って言うてるところが武器だから、いろんなことにチャレンジして欲しいよね。歳をとってくると、やっぱりどうしても知識や経験値で後ろ髪引かれたりとか、二の足を踏んでしまったりってするんですけど。若いからできる、若いから許してもらえる。
いろんなことしたかな。いろんなこと言って、いろんなことして…いろんな刺され方もしたし。とはいえ、やっぱり責任ある立場だし、祖父の後を継いでいかんとあかんっていうことでいっぱい刺されましたけどね。刺されて刺されて、刺されまくってね、「3回刺されても、5回刺されても一緒やろ」って言われましたけど。3回より2回の方がええし、1回の方がええし。
あとは、刺されて、痛いだけでうずくまれない。やればやるほど結果も出るし、変わっていく通天閣であり、町っていうのが垣間見ることもできたし。少々強引やったんかもしれませんけど、その中でね、痛みに耐えて、ほんまによう頑張った時期やなと思いますわ。
CHAPTER 3
30代副社長に社内の逆風……
尽きないアイデアで猛進!
CHAPTER 3
30代副社長に社内の逆風…… 尽きないアイデアで猛進!
この通天閣、新世界、どうしたら人が集まるかなと考えていった時に、見つけ出したのが皆さんご存じの“ビリケンさん”ですわ。
幸運の神様ね。足の裏を触ったら幸せになるか、ならないかな、どうなのかな。足の裏をさすると幸せになるかもしれない、ということで多数の方がお参りいただいてるんですけど。
関西では、ビリケンさんの知名度はあったんですけど、全国的に言ったら…。仙台でいうところの“仙台四郎”とか、沖縄のシーサー的な守り神ですかね。
足を触るとね、幸せになるか、なれへんか。宗教法人でもなんでもないんですけど、ユニークで面白いキャラクター的な、もっと新世界通天閣を知ってもらう1つのキャラクターとして活用できへんかなということで。
ビリケンさんをキャラクター化していろんなグッズを作り始めたのが、僕の初めての仕事ですかねえ。そして、門外不出やったビリケンさんをいろんなところでお披露目することによって、お客さんをビリケンさんが待つんではなくて、ビリケンさんが他のところに行ったり、イベントや被災地訪問することによって、新世界通天閣に来ていただけるきっかけ作りになるのかな、いうこと。
ビリケンさんを、いろんなところに出張させたり、グッズ作ったり。熊本県のくまモンが、くまモンも知ってもらうことによって熊本好きになる、っていうような、その走りちゃうんかなと思いつつ、ビリケンさんを活用した広報活動させてもらってました。
それの効果もあってか、通天閣も徐々にお客様が増えました。
あとは、日本人が大好きな“周年”で。初代通天閣からちょうど100年であったりとか。
ダブルスタンダードなんですけどね、ディズニーランドとディズニーシーじゃないですけど、初代通天閣から、100年であったりとか、2代目通天閣の再建から、60周年とか。
周年を祝うことで知ってもらうか、マスコミの方に報道していただくという広報活動しながら、通天閣2代目60周年で、初代通天閣から100周年っていう、アニバーサリーを絡めたイベントを取り組んだり。
塔自体の周年。2代目通天閣が60周年。初代通天閣の100周年。
何かにつけて、祭りだよ、何かしてますよっていう、そういう積み重ねかなという感じで、集客のきっかけにさせていただきました。
CHAPTER 4
大阪・大手メーカーの
お客様相談室に直談判⁉
CHAPTER 4
大阪・大手メーカーのお客様相談室に直談判⁉
内部体質もやっぱり変えていかないとと言うてるところで、大きな変革っていうのは、通天閣のこの地下ですかね。通天閣歌謡劇場っていう地域のコミュニティの演芸場をさせていただいてたんですけれども、利用度の低さと、コミュニティっていう中で通天閣がどんどん観光地化していってる流れと温度差がだんだん開きつつあって。
地域の中での演芸場という役目がだんだん薄れてきて、観光という割合がどんどん高くなってきたもんですから、せっかくある施設を活用していこうということで、苦渋の決断だったんですけれども、地下の歌謡劇場を閉鎖し、通天閣の入場待ち列の待機場所とお土産の各大手食品メーカーさんのアンテナショップを出店させていただいて。
通天閣でも、こういう大手の方が、今流行りのポップアップショップとか、アンテナショップとか、この時期ですとそんなに無かったです。
新世界通天閣で、グリコさんや日清さんや森永さんのアンテナショップっていうのは、各社にツテもなく、各社のお客様相談室から電話して。これもね、知らんかったからできたこと。わざわざ東京行ったりね、各社本社行って「通天閣です。地下のリニューアルするんですけど、協力してください」って言ってね。
その中ではね、通天閣っていう知名度で話を聞いていただけたっていうのは、本当に先人の方のおかげかなと思いますし。何も知らんかったんで、今やったら、多分できへんのんちゃうんかなとか諦めるんでしょうけど、知らんかったから熱意が通じて、地下の改装をさせていただいて。
まあ、本当にその時はね、いつか、いろんな方が、「新世界でも通天閣でもこうなるんや」ときっかけになれればなと。
今、もう約10年経ってますけれども、ぜんぜん錆びることなく、たくさんの方に利用していただいてるんで、良かったなと言うてるところを皮きりに、どんどん、どんどん、いろんなイベントしたりとか、たくさんの方が来られてるもんですから、地下の改装をできる具合になったと。
それまで、本当にお金がなかったんですよね、本当に。僕が入った時、朝10時から、夕方も6時頃で閉めてましたから。1日開けてもお客さんもそんなに来られず…
とはいえ、いろんなイベントとか仕掛けることによって、ビリケンを使って、着ぐるみも作れましたし、(たくさんの方が)来れるようになって。他のタワーと違って来塔されないとお金がたまらないもんですから。
僕が通天閣入った時なんか、本当に、窓際の柵とかもペンキも取れて、触っただけで手がまっ茶みたいな。サビでね。床もなんか波打ってたり、雨漏りがしてたり。僕が入る前でしたら、天井は雨漏りやし、ガラスも割れてたり。非常に厳しい時代もあったみたいで、そういう中では、いろんなPRさせていただいて、お金が溜まったことによって施設リニューアルができたっていうのは、1つのきっかけでしたかね。
CHAPTER 5
徹底的にやりきる!振り切る!で
記憶に残る場所に
CHAPTER 5
徹底的にやりきる!振り切る!で記憶に残る場所に
大阪らしさって、やりきるっていうか、中途半端じゃなくて。昔の僕も、今の僕もそうです。やり切ってしまうみたいな、徹底的にやる。中途半端が1番嫌、振り切るっていういうイメージで、展望台の方もうんと派手にさせていただいています。その改装のメインが、展望台をリニューアルっていうこと。
本当にうちの幸運の神さん、ビリケンさんもたくさんの方にお参りいただいてるんです。展望台のビリケンさんのフロアがパワースポットになるように、大阪といえばやっぱりなんですかね、キンキラキンというか、きらびやかというか、大阪城の金の茶室をイメージして。この展望台を、黄金の展望台っていうか、金金金金みたいな、キンキラキンの展望台、展望フロアにしたりとか。
まずは自分がこんなのあったらとか、こういう風に楽しむ。自分が楽しめないのに、それは人が楽しむわけはないし、自分の世界観はどうかもわからへんけど、自分はこれに関しては、わがままでいいと思うんですよね。まずは自分目線っていう、自分がどうしたら通天閣を楽しめるのか。自分がどうしたら通天閣で物を買うのか。自分がどうしたっていうところを色濃く考えて。
あとはそこからですよね。お客様がどういう風にしたら…ていうところの基準を落としていくっていうか。自分は自分で正しいと思ったこともないです。自分の知識っていうか、レベル感っていうのは、自分が正しいわけじゃなくて、人が判断すること。ただ、でも、判断できるっていうのは、日々の情報であったりとか、他を見るっていうか、自分の立ち位置とかレベルとかを常に情報を集めるところでは、アンテナはビッとは立ててるつもりではありますね。
その中で、今、通天閣は何を求められてるのか、この大阪にとって、大阪のランドマークとして何がふさわしいのか。常に消費者目線、ユーザー目線で、どうしたら通天閣を楽しんでもらえるのか、どういうことしたら良かったよって言ってもらえるのかなって、お客様の声は気にしつつも、そこはもうある種、クレームも意見っていう。
記憶に残るっていうかね。何かをしようとか、やっぱり、皆さんが想像できないかもですが、僕の中では想像できるんですけどね。
この通天閣、ちっちゃい時は(記憶に)残ってますけど、僕自身、残ってても印象残ってないっていうか、汚いだけっていうね。当時、お金なかったもんですから。
僕は、他の観光地行っても全部が全部覚えてるかと言ったら、良いも悪いも、ある種尖った記憶であったり、そこまで振り切らんとあかんのかなっていう。できるだけ印象に残る、良いも悪いも。ただ、その悪い意見でクレームもあるのも事実で、ある時もあるんですけど、そこは人を怒らせるぐらいのエネルギーを発してる。僕らも何かをしてるっていうように前向きに捉えて、色濃くさせていただいてる中では、最上階の展望台も、もう徹底的に金色にしたりとか。
4階の光の展望台は、音をちょっと大きめにして、「うるさいわ」とかね、お客さん怒ってきはることもありますけども、人を怒らすっていうことは、それだけの、何か伝えられるエナジーが通じたんだって、前向きに捉えて、色濃い施設作りっていうのは目指してます。他じゃできない、通天閣だからと。
雰囲気作りと、イメージ作りと、それに伴う、施設作りっていうのは日々、考えつつ、その延長上は、このスライダーかなって感じで、色濃い施設作りっていうか、記憶に残る施設改良はさせてはいただいてますかね。
やっぱり新世界って、ディープな下町っていうイメージだったもんですから、僕は街を変えるって本気で変えたい。
ただ、いろんな個性豊かなおっちゃん、おばちゃんたちがおって、このまま下町を続けていったらどうなのかなとか思うと、やっぱり僕が思う新世界もそうやし、周りから見られる新世界。新世界を見る目っていうある一定の知識っていうか、行ったら怖いとか、女子同士ではやめとき、とかいう風な感じやったんで、僕自身のその通天閣・新世界を変えるっていうプロモーションも、地域の方へのメッセージではなくて、大阪新世界を知らない方へのプロモーションっていう中で、大阪以外の方へのプロモーションであったり、インバウンドの方へのプロモーション。(そういう人は)知識がないですから、来てくれやすい。色眼鏡なく町をどんどん、この地域の中でのスポークスマンとしていろいろ広報していきました。
そういう中で、地域の中で根付いた商売をされておられる方が、観光っていう変化についてこれず、新世界を好きなのに離れていかないといけないという状況があったり、空きテナントに魅力というか地域に魅力を感じて空きテナントを借りて商売されたりされるお客様がいらっしゃったり。僕がPRすることによってだいぶ新陳代謝をしたかな。入れ替わりがあったかな。
そういう中で町は光輝くんですけども、その町の変化についていけない方で新世界を離れていかれる方を見送るような状況、非常に僕は今でも罪悪感っていうか、ほんま、死ぬまで背負っていかんとあかん罪悪感かなっていう。
町の広報を踏まえてPRをさせていただいて、あとは判断と行動っていうんですかね。この会社に入った時から副社長として入って、常に責任を背負いながらやってきたもんですから、その責任感っていうのは、社長になっても変わらない。時代も恋も仕事も、タイミングを逃してしまうと、次いつ来るかわからないですし、その波っていうのは逆らうことなく、波には乗れよっていう思いが常にあります。ですから、波に乗るよう、その波をどう捕まえるのか。
なんですかね、魚の群れがあるのか、鳥がざわめいてるのかって、常にエナジーを何か感じながら、特にその波を感じるようにはしてますかねえ。来た波は絶対逃さない。
来た時のやっぱり備えっていうんですかね、だから日頃の備えっていうか、考えとか、ああしたい、こうしたい、そうしたい、こうしたら面白いんちゃうんかなっていうのは、常に考えて。そのタイミングが来ればすぐ出せる。そこから考えるんじゃなくて。
タワースライダーもそうですよね。波が来たから考えるんじゃなくて、波が来たらすぐ出せれるような状況に持っていって、こうやってます。
そんなのが多いですからね。世界初のこの既存のタワーで免震する時も、免震するだけではなくて、初代通天閣の橋脚部分にあった孔雀の絵を再現したいなあ、と。どうせ足場立てて工事して、そこも養生するんだからっていうことで、免震プラス天井画の孔雀の壁画も。
だから、日頃から通天閣に来ると、本当に常に頭がぐるぐる回ってる。日頃の備えっていうか、何がしたいこれしたいと言ってるとこで、タイミングが来ると引き出しパパパッと開けて、どういう風にね、マッチングさせるかと。
一歩は早くしてますよ。日頃の知識と行動の一歩の早さ。そこがやっぱり波を捉える秘訣かな。あの中ではもう非常に難易度は高いって考えるんじゃなくて、日頃から考えとかんとあかんし。失敗は許されない。通天閣だけじゃなくて街に影響するんですから。
CHAPTER 6
通天閣にスライダー!?
コロナ禍だからこその挑戦
CHAPTER 6
通天閣にスライダー!?コロナ禍だからこその挑戦
通天閣が閉まってると、地域全体が閉まってるっていうイメージを皆さん持たれるので。地域の方。「最後の最後まで通天閣開けといてな、兄ちゃん」って言われてね。
ま、そらそうですわ。町で通天閣がライトを消してると、町も暗くなるやろうし。通天閣が閉まってると地域も閉まってると思われるので。緊急事態宣言でも開けるぞっていう思いで、緊急事態宣言が出た日も開けたんですけど、「開けといて」って言ったおっちゃんが臨時休業されてて、みたいな。どうなってんの。お客さんもけえへんし。もう誰もいない。いつもはね、ふらふら乗ってるおっちゃんの自転車とかもあるんですけど、本当にもう、ローソンとマクドが開いてるだけで、全部閉まってる。町自体が一変してましたかね。
緊急事態宣言で当日でも来てくださったお客さんもね、数十名いらっしゃったんですけど、収益に全然あいませんしね。開けといてって言ってたおっちゃんたちは、兄ちゃんたちは、全部ね、えー、臨時休業されてるからね。
最後の最後まで開けといてやっていう責任の中、大阪観光局にも電話したんですけど、開いてんのは通天閣だけですって言われて、精一杯のことやったかなっていうことで、緊急事態宣言の発令に伴い、通天閣も翌日から閉めていった。
そんな中でずっと自宅待機っていうのも、どうなのかなって。やっぱりコミュニケーション、会話する機会を作ってあげないと。
コロナ禍での思い出っていうのは、日頃から通天閣は展望台だけではなくて、お土産を販売する販売事業もさせていただいてて、お土産を仕入れて販売する、日頃支えてくださる業者の方ともやっぱりコミュニケーション取りながら商売させていただいてたんですけど、急にコロナが来たもんですから。
雑貨は捨てなくていいんですけれども、お菓子に関しては賞味期限があるもんですから、非常に皆さん賞味期限を…どうしてもお尻が決まってるもんで。とはいえ、売り先がない、店が閉まってるとなって、非常に困っておられたっていうことを聞いて、通天閣が全館閉めても良かったんですけど、地下の劇場の後の「わくわくランド」っていう物販のゾーンだけ開けて、市中で、もうどうしようもできない、その観光土産をうちで引き取らせていただいて、少しでも現金化して、コロナ禍明けに、その業者の人たちが活動できる、再開できれる資金に変えてあげたいな、と。
半額でセールさせていただいて、地道に出勤者を増やす。
日頃支えてくれてるお土産をちょっとでもリスタートの資金援助になるというところで、お土産もの半額をさせていただき、一声かけると、やっぱり二声、三声になってしまって。たくさんのお土産業界の方が苦しんでたの。どんどん、どんどん持ち込まれてましてね、もう、置けないぐらいの、賞味期限間近の商品がたくさん集まってしまい、来られる方も、コロナ禍の中でね。あ、不要不急の外出は控えようとか言いつつ買ってきて欲しいっていう矛盾の中、どんどん、どんどん、集めた賞味期限間近のお土産も溜まるもんですから。
当時、ようやりましたわ。Amazonや楽天とかも、使い方もわからずね、通販もしたことなかった私ども通天閣が唯一使っていたSNSがTwitter(現X)です。Twitterに、「こういう、このセットを5000円で販売します。つきましては電話でご連絡ください。着払いでお送りします」っていうことでTwitterで呟くと、たくさんの方から応募いただいて。
そういう風な通販をしたことがなかったんで、そこはもう人海戦術で、お客様から電話あっていちいちする。今やったらメールの登録フォームに、住所と氏名、年齢、職業とか入れるんですけど、電話で来て、いちいち手書きで書いて、1箱5000円で、『5000円パック』という感じでね。着払いで。宅急便屋さんに持っていただいて、宅急便屋さんから代金を回収してもらった。多い時やったら、1日150箱ですかね。詰め合わせするのも、人を出勤させてなんとか。
うちの従業員じゃないですけど、それもいろいろ、賛否いろいろあったんですよ。
外に出ることによって「感染リスクどう考えてるんや」…とかね。
とはいえ、やっぱりある程度は対策をしながらやらないと、自分が不安感を持ってしまうんじゃなかろうかなって。結果論じゃないですけど、精一杯したことによって従業員の心のメンテナンスが保てたのは、今振り返っても良かったかなという風に思ってます。
その中で、日々150個作って、150個出して。お土産屋さんも非常に助かったって言って、今もね、感謝してもらってますわ。
(それまでは)したくなかった、誰でもできる安直な価格訴求での人集めでも、ほんまに考えられる。全てさしてもらってましたかね。
とはいえ、コロナが1年、2年経つようになり、またゴールデンウィーク迎えて、どうなるんかなとか思うと…やっぱ春先に人がね、新入学であったり、入社とか人が入れ替わる動くっていう時期には、やっぱりコロナが増える。
去年もそうやったし、今年もまたゴールデンウィーク。こうやって規制になるんかっていう、人の行動ってよう似てるなっていうこと、改めて実感させられました。
このコロナ禍がいつまで続くかわからない。反対に言ったら、同じような人間の行動の、時期という同じような感じを改めて感じさせていただいたとともに、コロナもいつまで、もっと続くんちゃうんかなって不安になって、このままではあかんわっていうことで、日頃しない、暇だからできる、暇だからしかできない、何かしようというところで考えたのが、今話題の、タワースライダーですわ。地域が本当に死んでたっていうか、人もいないで死んでましたから。
その中で地域を変えて、3か月でね地域を変えるんだと思ってた。僕が10年かかったように、そんなに急激には変わらへんし。とはいえ、このコロナ禍、やっぱりコロナ明けに向けて何かしないとあかん。通天閣でもそうですけど、地域を変えるなんてもっとしんどい。
地域を変えたいなっていうか、何か強い電気ショックと思った中で、地域に電気ショックを与えることはできませんから、通天閣に強い電気ショックを与えることによって、その電磁波なのか電圧を地域に、影響をもたらしてね。リバイバルであったり、リスタートのきっかけになればなって。
コロナ前だと年間100万人、あえていろんなリスクを抱えて改装することもなかった。しなかったアイデアでは、1番何が良いかなって考えた時に、バンジージャンプとか、ロッククライミング、滑り台。安全を確保しつつ、皆さんが想像できる、想像できないもの。あんまりコアにしすぎると、認知度であったり参加率が低くなるので、誰もが参加できたり(するもの)。コロナ前、インバウンドの方がたくさん来てくださった時代に、コト消費、体感型っていうところ。京都での着付けの体験であったり、茶道体験であったり、忍者体験。いろいろ体験と言ってるところが、多分、コロナがあけたらインバウンドもたくさん来てくださるかなという中では、1番安全に安心でわかりやすい滑り台や、と。滑り台をうちの出入りしている工務店に「できるか?」って言うたら、「なんとかできる」っていう回答を得たもんですから、やろうと。
当時の僕としては、赤や黄色や緑や、大阪府の吉村知事にもう勝手にね、ライトアップ大阪モデルっていうコロナの感染状況を示すね、ライトアップに勝手に協力してくれと言われて。「聞いてないよ」っていうね。ギャグじゃないですけど。
そんな中で地域の方々にも、だいぶ、「赤・黄色についてる通天閣を見ながら、串カツ食べるか?」とか、飲食するかとか「人が来るのか?」と。まあ、確かに人を抑制するために通天閣のライトアップを黄色や赤つけてるんで、本当に暇だって言ってるところで、散々、地域の方々にはお叱り受けたかなと。とはいえ、やっぱり報道の方もそうですけど、
赤や黄色だけじゃなくて、僕の信念の中で、絶対、緑色をつけた時に来る。緑色つけたい、と思うし、つけた時に、絶対報道してくれて、それが安全宣言に繋がるかなと思って。ずっとコロナ禍の中は、協力はさせていただいて。いろんな声があったんですけれども、自分の責任感の中で、最後まで大阪モデルには協力してやってました。
そういう中で起死回生、何をしようかなって。社内でも、滑り台することによって、大丈夫、なんとか、反対意見もあったんですけど、ここぞとばかりに起爆剤だと思ってさせていただいてね。去年のゴールデンウィーク明けにオープンしたら、まあ本当にたくさんの方が来てくださって。
年間で、昨年で言うと22年の5月、ゴールデンウィーク明けにスライダーのオープンさせていただいたんです。1年経って、約20万人のお客様がもうすでに体感していただいて、本当にやって良かったかなって。もうそれこそもう必死のパッチで、わらをもすがる思いでやったので、自分を自分でちょっとだけ褒めてやりたいかなという風に思ってます。
CHAPTER 7
光り輝くイメチェン☆
もっと大阪を明るく!
CHAPTER 7
光り輝くイメチェン☆ もっと大阪を明るく!
コロナもね、スライダーもなんとか順調に年間20万人のお客様がたくさん来てくださり、2025年、大阪・関西万博に向けて通天閣もこの前年の実績通りに行けば、多分、海外からも含めて多数の方がこの関西・大阪に来られると思うので。
通天閣を見れば、見る人が見ればちょっと錆びてるなとか、美しくないなってところがポツポツと見られることもあったもんですから、通天閣を再建して2代目になるんですけど、1回、塗り直したんですけど再建してから2度目の全面塗装の塗り替えをさせていただいて。
合わせて、ライトアップ機材の交換時期であったもんですから、ライトアップ一新してより良く、なにわのシンボルが本当にこの新世界で映えるようにと。
今回は、今まで通りのグレーではなくて、ライトアップがより映えるように、全体の色をシルバーチック、明るいポップシルバーっていう明るい目のシルバー色で塗装させていただいて。今の感じでいくと、多分、夜のライトアップは今まで以上に映えるだろうなと。
前例主義というと今まで塗った色を塗っときゃそれで良いんでしょうけど、なんでなんでしょうね。人と違ったことしてしまうっていうか。内心ビクビクはしてるんですけど。だって変化することによってリスクはつきもんですね。
変化しないのは1番いいんでしょうけど、通天閣っていうのは僕の中での時代に応じてとか、やっぱりより良く後世に残すっていうのは、変化をすることによって通天閣が残るっていうか、大阪城とか四天王寺みたいな古いものを守って残すっていう残し方もそうなんですけど、僕の通天閣の残し方は、変化することによって、時代の流れをやっぱ掴みつつ、変化することで、変化することが通天閣の1番の残し方かなっていうこと。
今回の塗装、色も。ちょっと1歩進んだ。
多分、僕じゃなかったら選ばないでしょうね。それだけの責任と重圧を背負いながら、今回の塗装の塗り替えも色選定させていただいて、出来映えに関しては満足かな。やってよかったかなって。
壁になんぼいろんな色を投射しても、黒に全部吸収されるもんですから、白の面を増やしたいということで、今まで通天閣の縦のラインは金色やったんですけども、そこを白にして、全体のポップシルバー、明るいシルバーにしたもんですから、より白が目立ちやすくなってるので、今後再点灯される通天閣の色っていうのは、本当に映えるんじゃなかろうかなって今楽しみにしてます。
今までネオン管とLEDでのハイブリッドだったんですけれども、今回の改装後からは、もう全面フルカラーのLEDに変更させていただいてますもんですから、エコであり、かつ、どんな色でも出せる、フルカラーで出せるので、いろんなイベント、祝事であったりその時々に応じて、いろんなライトアップで、皆様にいろんな話題が提供できるんじゃなかろうかなって楽しみにしてまして、どんな色をしようかなっていうことで、今、ちょびちょびと色合わせ調整してるような状況。
コロナもね、僕の中ではもう明けたと思ってます。
今となってはね、中間展望台に明けない夜はない。まあ、通天閣がやっぱ光輝いてね、元気じゃないと、新世界大阪が元気じゃない、という思いでいますもん。ですから、いつまでも光輝いて、大阪の活気は通天閣からぐらいのイメージでね、これからもいろいろPRしながら、海外の方も含めていろんな元気を皆さんに届けていきたいなと思ってます。
CHAPTER 8
点でなく面の魅力が
大阪を発展させる
CHAPTER 8
点でなく面の魅力が大阪を発展させる
大阪の魅力って、やっぱり通天閣もそうですけど、個々じゃダメなんですよね。いかに面で、エリアで盛り上げていかないと。ディズニーランドとか、USJじゃないんですから、おっきな遊戯施設ではないので、僕の中では、やっぱり町がテーマパークになる。
初代通天閣の言われもそうですよね。「ルナパーク」っていう観光施設の中でのシンボルタワーということでは、僕はもう、町がやっぱり面であり、町に魅力がないと、通天閣にも来ないかなと思います。
町であったり、広い意味での大阪、関西って言ってるところでの連携っていうのは、今後とも強くなって、少しでも地域に人が来るようなプロモーションをみんなで協力しながらやっていきたいかな。呼ぶことによって協力しながら、呼んだお客様の取り合いっていうのは、それは個々の努力なんでね。野球じゃないですけど、セ・パっていう中でのセリーグみたいな。セリーグの中でも…みたいな、そこは切磋琢磨して、競争でいかなあかんかな。
2段構えでね、お客様を誘致していこうかなっていう。地域に魅力がないと通天閣に人来ませんから。そういう中ではね、表裏一体。切っても切れない仲かなと思ってます。新世界とこの大阪ってとこでは。
もう1回通天閣の社長したいか、って言うたら絶対したくないですよね。生まれ変わって通天閣に関わりたいと言ったら関わりたくないです(笑)。
通天閣、好きか嫌いか言うたら大嫌いです(笑)。「通天閣、好きでしょう」ってみんなに言われるんすけどね。僕は大っ嫌いで、好きになれないです、まだ。でも、好きになれないから、こういう風にいろんな、リニューアルとか、改装とかできるんかなとか。
今の既存の通天閣、現時点でもそうですけど、満足なんか全然してない。好きじゃないです。大嫌いです。
僕が多分(通天閣を)好きになる時はもう死んだ時でしょ。多分、死んでも好きにならないですわ。それだけの重圧を日々背負ってこの会社にね、来てるっていうことです。
これはやっぱりね、僕が入社した時からもそうですし、現時点でも多分、死んでもそうやと思います。うん。この通天閣への大嫌い感は続くでしょうね。
今回スライダーが大変話題になってるので、こういう風なアクティビティ、新たなアクティビティができればなっていうのは今計画中ですし。しやんでもええのにね、ついついやっぱりね、考えてしまう。
しなくてもいいんです。しなくても、もうお客さん来てくれてるのにね。ありがたいから、やっぱりどんどんぶっ潰したいっていうか。潰せない通天閣を、今に満足することなく、本当に常に変化さしてみたい。
大っ嫌いな天閣ですけど、やっぱり町のシンボルであるっていう事実は変わらないので、やっぱりそこはね、変化することでこの通天閣を、100年、200年、300年って続けられる、残していけるような、そんな施設になればなって。
そこだけは変わらないですかね。
いや、変化しなくてもいいんですけどね、今に満足することなく、自分自身、満足してないんでしょうね。満足感がないというか。
今は今で正しいとも思ってへんし。満足するか満足しないかは、人が判断することやし、時代が流れてるっていうのも事実やし、その時代の流れにやっぱり乗ってもいかんとダメでしょうし。その流れにね、変化しなくなったら、通天閣の終わりじゃないですかね。通天閣がなくなる日ですわ。それが。と僕は今、思ってますかね。
CHAPTER 1
輝く大大阪時代のシンボルから、苦悩の低迷期へ
現通天閣が昭和31年に立って、初代が立ったのが、ちょうど111年前、明治45年。ちょうど111年前に通天閣が立って、「内国勧業博覧会」という万博みたいな催しがこの地域であって、その跡地利用でルナパークという遊園地が建設されたと聞いています。
そのルナパークのシンボルタワーが通天閣であって、当時、高さ75m、東洋一高かったと言われてまして。この大阪を代表するっていうか、「大阪の中で1番賑わってるのはどこ」って言ったら、梅田でもなく難波や道頓堀でもなく、天王寺で、この新世界が中心やったと。1番光輝いていた「大大阪」って言われている、大正時代の中心がこの通天閣、新世界だったと聞いています。
それが、紆余曲折ありながら時は太平洋戦争になって、通天閣が解体され、火災にあって…。当時起こっていた軍事への鉄の徴収運動によって解体され、戦争が終わった後、この地は、焼け野原で何にもない地域になったんです。それから戦後復興の中、頑張っていくっていう時に何か心のシンボルというか、目に見える何かの中心として通天閣の2代目再建運動になったっていうことです。
昭和31年10月28日に、この2代目通天閣が再建されたと聞いています。完成した当初は本当にたくさんの人が来てくださいまして、(来場者)100万人続きだったんです。
当時、名古屋とか東京にも塔があるんですが、それらとの違いは、通天閣は景色を見る塔なんですよ。
戦後、なぜ各地で塔が立てられたかというのは、テレビ局のアンテナの送信、電波塔としてだったんですけれども、通天閣に関しては、近くに生駒山があるもんですから、自然な塔っていうかね、山から電波を送ることができました。
通天閣は、電波塔としての役割はなく、単なる地域の観光シンボルという感じで再建されたのですが、東京とか名古屋のテレビ塔は電波を送るというメインの事業がありますもんですから、収入がその事業としての軸があるんですけど。通天閣はもう再建当時も今も皆さんが登っていただく営業費で運営してるもんですから、基礎ベースがないので、非常に状況とか時代によっては不安定な経営をしていました。
そういう時期も多々あった中で、まあ当初来場者100万人をずっとつないでたんですが、工場の排煙やディーゼルなどで、僕らがちっちゃい時は光化学スモックとかで学校が休みになったり、昭和40年代は大気汚染で通天閣に登っても景色見えない。登っても何も見えないから上がらない、上がらないから維持保全・修繕できないという、苦悩の時代がありました。そんな苦労を重ねて、ずっと低水準で来て、非常に経営が危ういところがたくさんありまして、オーナーチェンジがいろいろある中で私の祖父が経営に参画するっていうので。その祖父が病気を患って…亡くなったものですから、急遽、私が登板というか。いずれはやってくるんだろうなとは思ってはいたんですが、30(歳)の年です。